保育所民営化取消請求事件(横浜市)※最高裁

 職場で時事通信(i-JAMP)の配信記事見てコーヒー吹きそうになった自治体職員は俺のほかにも全国に1800人くらいいるものと信じたい。
 早速裁判所ホームページ見ると既に判決文アップされてる。早ッ。
 家に帰ったら早速ブログ更新だぜとか思ってたら娘にメシ食わせたり風呂入れたり寝かしつけたりしてる間に既に何人かのブロガーさんに先越されてる。早ッ。


裁判所ホームページの判決文


 全文で4枚しかないので要約する価値はないかもしらんが要約してみる。

  • 平成9年法律第74号による児童福祉法の改正は、受け入れ能力がある限り希望の保育所に入所できるという、保護者による保育所の選択を制度上保障したものである。
  • 特定の保育所で現に保育を受けている児童及びその保護者は、保育の実施期間が満了するまでの間は、当該保育所における保育を受けることを期待し得る法的地位を有する。
  • 条例の制定は、一般的には、抗告訴訟の対象となる行政処分に当たるものではないが、本件改正条例は、その施行により各保育所廃止の効果を発生させ、特定の者らに対して直接、上記の法的地位を奪う結果を生じさせるものであるから、その制定行為は、行政庁の処分と実質的に同視し得る。
  • 当事者訴訟ないし民事訴訟の場合と比較しても、その効力は当該保護者と市町村の間に限られるから、第三者効のある取消訴訟で当該条例の制定行為の適法性を争わせることに合理性がある。
  • 【結論】以上によれば、本件改正条例の制定行為は、抗告訴訟の対象となる行政処分に当たると解するのが相当である。
  • とはいえ、上告人らの保育の実施期間は満了しているので、訴えの利益は失われた。上告棄却。

 えー、と。俺の頭が悪いのかな。正直、ついて行けない部分がある。
 区立小学校を廃止する条例の制定行為に処分性がないとした最高裁判決(第1小法廷平成14年4月25日判決、判例地方自治229号52頁)は、条例の制定行為に処分性が認められる場合があるのかどうかについて、必ずしも明らかにしていなかった。けれど、例外的に、条例制定行為が処分と実質的に同視できる場合には、処分性が認められる余地がある、というのがその後の下級審の趨勢で、今回の判決も大筋ではそれに沿ったものと言えそう。そこまでは、何とか理解できる。
 問題は、今回の条例制定行為が「処分と実質的に同視できる」とする理由のところなのだが。えーと、仮に社会福祉法人が運営する民営保育所が廃止になった場合、当該廃止行為は保育の実施を行う市町村の処分と同一視できるのかしら。
 伝統的理論によれば、典型的な処分とは「公定力のある行政行為」だったわけで(このへん、11月16日付けエントリも参照のこと)これを基本にして「処分性の範囲をどこまで拡大するか」という論点から議論を行った場合、行政庁の権力性・優越性に一切かすりもせずに「処分性あり」の結論に着陸する本件判決の論理は、一足飛びの感が否めない。
 青写真判決の判例変更の際にも思ったことだが、結局のところ、処分性についての要素判断よりも救済の必要性の方が先に出る、つまり「処分性があるから抗告訴訟の対象となる」のではなく、「抗告訴訟の対象とする必要があるから処分性を認める」という形になっているのではないか、という印象を持ってしまうのは、俺だけ?

 最近は、法制度のしくみ(阿部的言い方では手法なりシステム)を考察して、救済の実効性確保の観点から処分性を認める判例が増えている。行政行為概念は、処分性とは結びつかなくなっているのである。
(中略)
 私見では、ここに行政行為、行政処分概念は破綻に瀕していると言うべきである。行政行為は違法でも有効であるといった公定力という概念が法治主義違反の発想であることは繰り返し述べた。そして、行政の活動は、違法であれば、それが行政行為であろうと行政指導であろうと、是正されるべきであって、ここで重要なのは、法的な効力があるかどうかではなく、法治主義に違反しているかどうかである。問題は、今争わせるだけの現実の必要性と成熟性があるかどうかによる。
(中略)
 本来は、計画、規則、通達などを争わせるべきかどうかは、行政行為概念にとらわれず、争点ごとに争わせるべきかどうかを、タイミング、つまり、成熟性、最終性といった観点から考察すべきである。
(阿部泰隆『行政法解釈学Ⅱ』有斐閣、p111-p118)

 阿部説がなんだか心に染みます。
 公定力なんて亡霊ですよ、亡霊(感化されるの早ッ