給付行政と処分性

同僚「補助金の交付決定通知とかって、行政不服審査法行政事件訴訟法の教示入れる必要あるんですか?」
俺「おっと、それはなかなか奥が深い質問ですね(にやり)」


 伝統的解釈(もはやそんな解釈に立つ人がいるのかどうか疑わしいが)では、抗告訴訟は「公定力を排除するための特別の訴訟形態」であるから、抗告訴訟の対象となる「処分」は、「公定力のある行政行為」に限定される。
 ところが、このように処分性の範囲を狭義に解釈してしまうと、実質的な救済を図る上で多々不具合が生じることから、上記の伝統的解釈には学説からの批判があるし、実際、裁判所の判断も、必ずしも伝統的解釈にとどまっているわけではない。
 しかし、処分性の範囲を拡大するとしても、どこまで処分に含め、どこから処分でないものとするか、境界線近くのものの判断は困難であり、裁判例も必ずしも一貫していない。有名な「青写真判決」の見直し判決(最大判平成20年9月10日)だって、区画整理事業の事業計画の決定に処分性を認めたけれど、その理由は必ずしも一枚岩じゃないし(涌井意見・藤田補足意見)、処分とそうでないものを分かつ明確な理論構築は難しい。
 実務としては結局、当該行為の根拠が法律や条例にあるか、そうでないか、という様式による区分が横行してしまっている。


俺「というわけで、これが絶対と言うものではないですけども、本市の伝統的解釈としては、法律や条例によらず、自治法232条の2のみを根拠とする補助金は、私法上の贈与契約と何ら異なるところがないから、処分性はない、ということになります」
同僚「なるほど」
俺「学説が割れているものについては、特定の教科書だけ読むと、その人の自説を信じきってしまう危険があるので、なるべく各論を併記した客観的な教科書を読むことですね。お勧めはこのへんかな(原田尚彦『行政法要論』を机の上にどんっと出す)」
同僚「ふむふむ」
俺「で、処分性についての議論は「抗告訴訟って何?」「処分について争うものだよ」「処分って何?」「抗告訴訟で争うことができるものだよ」という循環論法に陥っているので、これと別のアプローチを探そう、っていうのが学説の方向性で、代表例としてはこのへん(塩野宏行政法Ⅱ』を原田前掲書の上に重ねる)」
同僚「ほー」
俺「で、そんな議論やるだけ無駄だ、そもそも前提が間違っとる、公定力なんぞ亡霊だ、って言っちゃってるのが(阿部泰隆『行政法解釈学Ⅱ』を塩野前掲書の上に重ねる)」
同僚「うひー」