除染というより移動管理

 福島第1原発での汚染水の保管問題がすごく気になっている今日この頃。


 今回の件で、放射能について一番難しいのは、(例えば有機塩素化合物六価クロム化合物の汚染とは異なり)化学的・生物的に分解又は無害化するという選択肢が取れないことなのだと再度思い知らされた。
 放射性物質放射性同位体は「元素」なので、化学的手法や生物的手法で無害な他の物質に変えることは(原則として)不可能であり、経時的な反応である壊変により、減少していくのをただ待つしかない。
 したがって、福島第1原発における「増え続ける汚染水」に対しては、ひたすら保管場所を確保し続けるしかないという、悲劇的な局地戦を挑む以外にない。ゼオライトなどを使った吸着処理が検討されているが、これとて(例えば六価クロムによる汚染水を三価に還元処理するのとは異なり)本質的な意味での「水処理」ではなく、放射性物質を水から吸着材に「移動」させているにすぎない。このことは、保管すべき対象物の「体積の圧縮」のためには必要、つまり、保管場所の確保のためには必要な処理であるが、他方で、より濃縮された状態の放射性物質を保管する方法の確立の必要性、という新たな難問を必然的に抱え込むことになる。
放射能汚染水の「処理」については、処理後の水の公共用水域への放出、というもう一つ困難な問題を抱え込むことが必然だが、今回これに言及するところまでは行き着けないので、またの機会に)


 放射能による土壌汚染に対する「除染」についても、同じことが言えないだろうか。
 そもそもこれを「除染」と名付けてしまったことが悲劇の始まりなのかもしれない。放射能汚染を本質的な意味で「取り除く」ことはできず、人体に健康影響を及ぼす可能性のある場所に蓄積している放射性物質を、より危険性の少ない場所に「移動」させる行為でしかない。単なる「移動」に「除」の語を当てたのは、果たして適切だったのか?
 除染という名の「放射性物質の移動」を行うからには、今後、移動記録の管理、保管場所の確保、そして保管状況の監視が、戦略的になされなければならない。にもかかわらず、移動管理の観点から全体的な放射性物質の挙動を見ることなく、局地的な空間放射線量率の数字にばかり一喜一憂していることが、不適切な除染を生み出すバックグラウンドとなっているのではないか?
 ある一定の土地区画における空間放射線量率を低減させることのみを指標とするならば、放射性物質を含む土壌を川や海に放り込むことがもっとも効率的な「除染」になってしまう。同様に、ある建物の屋根や雨どいの付近における空間放射線量率の低減のみを指標として、高圧洗浄機によって「除染」と称する放射性物質の洗い流しを行えば、排水経路のどこか(細粒が堆積・滞留しやすい箇所)で放射性物質が蓄積し、今度はその場所での「除染」を余儀なくされるのは、自明の理である。
 放射性物質(Cs-137)の物理学的半減期はおよそ30年である。今ある量が半分になるまでに30年かかるということは、4分の1になるのに60年、8分の1になるのに90年、1024分の1になるまでには300年を要するということだ。
 つまり、放射性物質の「除染」ということを本気で考えていくならば、今後数百年単位で移動管理を行わなければならない。健康影響のおそれのある場所から別の場所へ放射性物質を移動させる、という選択をする以上、移動させた放射性物質を数百年単位で保管・監視していく覚悟が必要なのだ。


 ということで、差し当たり、汚染現場であるところの福島第1原発の汚染水問題は、今後長期間にわたって続く放射性物質の移動管理のひとつの試金石なのかな、と思っておるわけですよ。
 ポイントとしては「体積の圧縮(建屋への地下水流入の阻止、吸着材等による水からの分離)」、「保管場所の確保(いつまでも水タンクを建設し続けるわけにはいかない)」、「保管状況の監視(知らぬ間に地中や海中に漏れ出ていないか)」といったところで、ここで経験したことは、今後あらゆる除染サイトにおける教訓になると思って、その動向を注視しているわけです。