今日も調停

 待ち時間には『強制する法務・争う法務―行政上の義務履行確保と訴訟法務』(鈴木潔、第一法規)を読む。われわれ実務家にとっても、全体として役に立つ書籍だが、特に関係行政庁への丁寧なヒアリングに裏打ちされた第3章は必読。


 それはそれとして、調停。
 法規担当となってから、これまでに何度か、指定代理人として民事調停に携わったことがあるが、いずれも不調に終わっている。
 正直にいって、自治体というのは、調停の当事者に向かない立場だ、と思う。調停の場に持ち込まれる事件である、ということは、互譲によって妥協点を見出す以外に解決策がない、ということに等しいが、自治体の行動原理は「法律による行政の原理」であるので、どうしても、杓子定規な対応をしなければならず、事件が調停の場に持ち込まれたからといって、そう簡単に譲るわけにはいかない傾向がある。加えて、和解は自治法96条の議決案件であり、市の公金を用いて和解=譲歩をすることについて、その必要性を市民の代表たる議会に説明する必要があることが、より客観的に・通常人の感覚に照らし妥当な譲歩であることについての理由を求められる動機となり、それが調停の成立へのハードルを高くしている。
 実を言うと、一度、調停員を本気で怒らせてしまったことがある。金銭賠償(といっても、賠償を求める根拠はかなりあやふやであるように、私には感じられたが)を求めて市を相手方とする調停が申し立てられたものだが、その額自体は少額であったことから、調停員から「このくらいの金額がなぜ払えないのか」的なことを言われ、ついカチンときて、「市の金は市民の財産であるから、金額の多寡の問題ではなく、法的な根拠が明らかでない支出については、ビタ一文出せない」というような内容の話を、強い口調で言い放ったら、調停員の機嫌を損ねた、という次第である。言い方が大人気なかったことへの反省はあるが、話の内容それ自体は、決して間違ってはいないと、今でも自負している。つまり、調停員は「申立人−相手方」という二者の関係において妥協点を見出そうと腐心してくれているわけだが、行政庁は「調停の当事者でない市民一般」の方を向いて判断をしているので、話が噛み合わず、妥協点が見いだせないわけだ。
 そうなると、対世効を有する行政訴訟において、職権証拠調べのような当事者主義の例外があるのと同様に、公平性や適法性の要請を強く受ける行政庁が当事者となる和解において、何らかの、当事者以外の方向からの動機づけを導入する仕掛けがあればいいのにな、と空想してしまう。法律による行政の原理(むしろ阿部泰隆風に「法治主義」と言った方が妥当かもしれない)の観点から、行政庁と私人との紛争解決の手続に、私人同士の紛争とは少し異なる何か一工夫したルールが検討されることの意義があるのではないかな、と思い始めている。