砂川市有地神社違憲訴訟(空知太事件)・最高裁判決(感想・続き)

 食器洗い乾燥機が故障したり娘が風邪ひいたり俺が風邪ひいたり色々あって時間があいたが、ようやくじっくり判決文読み直してみた。
 重要なポイントは多分「目的効果基準はどうなったのか」と「行政訴訟における当事者主義」の2点。他に「この程度のちっちゃい神社でわざわざ違憲と言うのか」みたいな議論もあるが、これはあまり議論の広がる余地がなさそうなので無視。


 まず、目的効果基準について。津地鎮祭事件で明らかにされた、政教分離原則についての違憲審査基準は、憲法20条1項後段、20条3項、89条を一緒くたにして

  1. その目的が宗教的意義をもち
  2. その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等になる

 かどうかで判断すべきものとされてきた。
 ところが今回の判決では、もっぱら89条の審査基準として、「当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべき」と示された。ここには従来の「目的効果基準」で言うところの、「目的」に当たる部分の評価がない。
 このような判断基準を採用したことについて、多数意見中には「以上のように解すべきことは、当裁判所の判例(=もちろん津地鎮祭事件を含む)の趣旨とするところからも明らか」という以上の説明はない。
 したがって、ここから先を読み解く手がかりとしては、藤田判事の補足意見しかないわけだが、藤田補足意見を私なりにかいつまんで読むと

  1. 本件にあっても、目的効果基準を否定するものではない
  2. ただし、目的効果基準の適用の在り方は、事案の内容によって異なって然るべき
  3. 明らかな宗教施設が市有地を無償使用しているという本件の特殊事情に鑑みれば、行為の目的を論ずる余地はない

 というふうに理解できた。


 ところで、目的効果基準には学説の伝統的な批判があって、批判の方向性は大きくいって以下の2通りであったと理解している。

  1. 目的効果基準そのものが曖昧な基準であって、国家と宗教の結びつきを容易に許すものとなっている
  2. 目的効果基準それ自体は厳格な基準である(べきだ)が、最高裁がこれを緩やかに適用してしまったがために、政教分離原則の厳格な適用を妨げている

 基準そのものがザルなのか、適用がヌルいのか、という話だが、先の藤田補足意見は、上記批判意見の「2」の立場から読むと非常に分かりやすい。目的効果基準の基本的な考え方を踏襲したまま、事案の内容に応じてその適用(考慮事項)を適宜変えていくことで、過度に緩やかな基準とならないようにする、という方向で、学説の批判に一定の解を示したものだ、と言うこともできそう。
 しかし私の個人的見解を言えば「1」の批判意見の方がむしろクリティカルなのであって、今回の判決は、この批判に何ら応えていないばかりか、かえって主観の入り込む余地を広げ、一層曖昧な基準として基準の用をなさないものとなり、今後の裁判に無用の混乱を呼ぶものとなってしまったのではないか、という疑念を感じる。
 なお、前回のエントリで少し触れた話だが、藤田補足意見のいう「宗教性」と「世俗性」の優劣が微妙であるかどうか、という判断指標に、私は納得しかねる。というのは、「宗教性とはいかなるものか」「世俗性とはいかなるものか」が明確に区分できるはずもなく(だからこそ訴訟になるのであって)、容易に判別し難いアナログな関係であるからこそ、これまで「目的効果基準」という単一の指標(といえるほど明確なものではなかった、という批判はもちろんあるにせよ)に機械的に当てはめてきた、ともいえるのではないか、ということだ。
 結局今回の判決は、(結論そのものの妥当性とは別問題だが)違憲審査の枠組みとしては、全体として明確さを欠き、煙に巻かれた感がある。これでは、考慮事情の密度しだいで結論がどちらにでも転びそう(甲斐中ほか意見は、このような危惧と無縁ではないのではないか?)なあやふささ、危険性を感じる。


 ああ、あくまで素人の感想ですから。学生時代「憲法Ⅰ」で2度も不可食らった出来損ないの戯言ですから。話半分でお願いします。


 長くなったので「行政訴訟における当事者主義」の論点については、また後日。っていうか、田原判事の補足意見の後半部分が、今回の判決の中で一番スリリングで面白い箇所だと思う。ので、日を改めてじっくり。