砂川市有地神社違憲訴訟(空知太事件)・最高裁判決(感想)

 さて、以下は標記事件の個人的感想などを。


 何と言っても本気でびっくりしたのは、本判決が伝統的な「目的効果基準」のフレームを踏襲しなかったこと。津地鎮祭事件(最大判S52.7.13)以降、政教分離についての最高裁判決は皆、判で押したように同事件の判決文を引用し、「当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的および宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮」するのだと繰り返してきた。ところが本判決は、考慮事項として「当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情」を掲げ、これまでの最高裁判例とは明らかにニュアンスを異にしている。
 もともと、津地鎮祭事件の採用した目的効果基準のフレームについては学説からの批判があり、基準が曖昧にすぎる、あるいは逆に、基準自体は厳格であるべきものだが適用が緩やかにすぎる、との意見は聞かれていたが、さすがに、「目的」を考慮事項に入れない、という本判決のスタンスは、かなり思い切った判断だ。
 この点についての学説の批判も踏まえた本判決の立ち位置については、藤田教授の詳細な判例評釈があるので、詳しくはそちらを参照(違


 しかし、仮に藤田判事の言うとおり、目的効果基準が機能するのは「宗教性」と「世俗性」の優劣が微妙である場合に限られる、としたところで、本件がそのような場合に該当しないとなぜ言えるのか、については議論の余地がありそうな気がする。同じ藤田判事の補足意見の中で「その教義上排他性の比較的希薄な伝統的神道の特色及び宗教意識の比較的薄い国民性」について言及されているとおり、そもそも神道というのは、その元来の姿において、十分に「世俗的な宗教」なのではないか。そもそも、世俗的でない宗教などありえるのか。宗教性と世俗性は常に同居しているものであり、その判断はしばしば微妙なものであるから、これまで、一様に目的効果基準に当てはめてきたのであり、またそれが妥当だったのではないか。
 ひととおり意見を読んだ後でも、結局、津地鎮祭事件の判断そのものを否定したわけではないのに、本件に関してなぜ目的効果基準によらないことができるのか、その理由がどうも納得できない。


 その上で、いずれにせよ重要な考慮要素となる「一般人の評価」についても、結局多数意見は、「神社である」「無料である」という事実認定のみによって「一般人から見て特定の宗教を援助していると評価できる」という結論を導いている印象を受け、やや一足飛びの感は否めない。甲斐中判事ほかの意見にあるように、判断に際し認定すべき事実がもっとあるような気がするが、多数意見には「あれ?そんだけ?」というような、えらく簡単にやっつけられてる雰囲気を感じる。とは言いつつ、より詳細な事実認定を行った上で考慮事項の判断を行ったとしても、おそらく結論は変わらなさそうな予感もするのだけれど。


 他にも言いたいことはいろいろあるけど、すいません、眠いのでまた明日以降。