分権と自治

ここ二十年くらいの分権改革の中で気になっていたのは、「分権」の語ばかりが前に出て「自治」の語をあまり見られなかったことだ。いっとき、地方分権から地域主権へ、というような語句の使用がされかけた頃(主権は国民のものだろう、というツッコミはさておき)、新語を製造するよりも、昔ながらの「地方自治」の語をどうして使ってくれないのか、と不満に思ったことがある。

地方分権」と「地方自治」は相互に深く関係するものではあっても、決して同一のものではない。「地方分権」の対義語が「中央集権」であることから分かるように、地方分権とはこの国の統治の仕組みとして考えるためのものだ。経済成長からの長期停滞、人口急増からの急速な少子高齢化、といった社会構造の変化に対応するため、この国の統治の形を変えて、地域のニーズを細かく拾い上げて対応できるようにする。地方分権とは、そのためのものだ。

対して地方自治とは、地域レベルにおいて民主主義が実現していることだ。住民が他者による支配の下に置かれることなく、のみならず、自ら政治決定の場に参画できること。

したがって、地方自治は民主主義社会の基礎、根底的なものであり、これを否定することは許されない。他方、地方分権は統治の形として何がより効率的かという問題であって、無批判に「地方分権なのだからこれはよいものだ」という話にはならず、何を中央で決定し、何を地方で差配するのが望ましいのか、個別に考えなければならない。これが私なりの「分権」と「自治」に対する理解だ。

その上でここまでの分権改革を振り返れば、(もちろん、機関委任事務の廃止に象徴されるような大きな収穫があったことを過小評価するつもりはないが)一方で、「分権」が「自治」を上書きするような、分権の意義が強調されすぎることで自治の重要性を薄れさせる側面もあったように思えてならない。

地方自治法に国と地方の役割分担や関与の原則についてしつこいくらいに書き込まれたのは、もちろん分権改革の偉大な成果なのだが、意地悪い見方をすれば、国の統治のため必要な公的事務の総量はあらかじめ決まっていて、その分配の話に国と地方の役割を閉じ込めているような、そんな窮屈な印象を受けなくもない。

そろそろ「分権はいいことだ」から立ち止まって、分権の価値をもう一度深く考え直すとともに、守るべき自治の形を意識する頃合いではないか。

国の事務が地方に降りさえすればいいのではなくて、ナショナル・ミニマムや広域的同一性を求められる行政について、現状地方が行っている事務の中にもう一度中央に返すべきものがないかを考えるべきだ。少なくとも、「臨時福祉給付金は自治事務である」というような言語矛盾の状況は解消すべきだ。

そして、地方自治のとりでは地方議会である。改革の美名のもとに、地方議会の本質的な権能を蚕食されるような動きがないか、目を光らせるべきだ。もう「議決権の濫用」などというおぞましい言葉は、二度と聞きたくない。

 

すいません。ちょっと酒飲みながら書いてますが、地方自治信奉者のちょっとした本音です。

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