一見きれいな出来のものは、問題点を見逃しやすい

 例規の審査をする際、最後は必ず紙に印刷して、鉛筆で1文字ずつチェックする。
 例規案の浄書はパソコン上で行っているわけで、ワープロソフトの検索機能とか一括変換機能とかも審査の途中過程ではフル活用するが、やはり最後は紙と鉛筆でチェックしないと気が済まない。20枚を平気で超えるような税条例の改正案とかも、国の条例(案)と、それを市の条例に落とし込んだ新旧対照表と、改め文とを、全部紙に印刷して並べて、鉛筆で1文字ずつ、ぴっぴっぴっ、とチェックを入れていく。そうすると、パソコン上で目を皿のようにして何度見ても発見できなかった、どうしようもないケアレスミスや変換ミスが、ひとつやふたつ見つかるから、不思議だ。
 思うに、パソコンの文字は端正に並びすぎていて、ミスを発見するのが難しい。手書きでメモを取ったり草稿を練ったりしているうちはまだまだアラが多そうに見えたのに、パソコンに打ち込んだ途端に、何だかそれなりの出来栄えに見えてきたりするから、恐ろしい。だからあえて、手書きでチェックすることによって、鉛筆が紙をひっかくソリッドな感触と、手書きの文字の書き込みによるちょっとした癖や乱れが、この端正さを乱し、目線が原稿の上を流れて行ってしまうことに歯止めをかけているのではないか、と自己分析している。
 見渡せば、同僚も皆、最後は紙の上でチェックをしているようなので、多分、みんなそうなのだろう。


 審査に至る前の、担当課との事前打ち合わせの段階でも、似たような現象がある。
 「例規のたたき台作ったんで、確認してもらえますかー」といって、担当者から案を受け取る。大概、いくらかの手直しが必要になるのだが、法規担当になった最初の頃は、細かな文言も含めて、かなりきっちり直しを入れて担当者に返していた。
 ところが、法制執務上の微妙なてにをはも含めて直してしまうと、見栄えだけは立派なものが出来上がってしまうので、出来上がった条文に運用上の問題などがあったとしても、却って気づかれずに見過ごされてしまう、ということに、だんだん気づいてきた。
 だから今は、担当課から案を受け取った際、まずは「大きな問題のある個所の指摘」だけにとどめて、細かな文言表現については、あえて触れないことにしている。単純な誤変換やミスタッチ(「補助金のの交付」とか)であっても、あえて指摘せずに見過ごす。最初に「問題個所の指摘」をして、その部分についてどう考えるか、返答を待つ。そうして、大まかな問題がクリアされてから、細かい文言も含めた修正を行うが、その場合も、担当課の作成案をデータで受け取り、見え消しや色分けを用いて、何をどう修正したのかをいちいち細かく説明する。
 例規案の完成という点からすれば、最初から全部修正してしまったほうがよっぽど早いのだが、こうやって段階を踏んで、その都度担当者と一緒になって考える手間を惜しまない方が、結局、後から問題が出てくるリスクが少ないことに気付いた。
 最近ではさらに一歩進めて、担当課から案を受け取った時点で、それをもとに細かな文言表現も含めて全面的に直した自分なりの理想の案を作ってしまう。しかし、その全面修正案は担当者に絶対に見せず、自分の手元資料として使う。自分の中では完成形を用意しておきながら、あくまでも担当者自身に考えてもらい、自分は、どうやって担当者を誘導し、自分の理想形に近いところまで到達させるか、を考える(その結果、自分の理想形と担当者の到達点が異なり、自分の理想形の方が出来がいいように感じられたとしても、自分の案は没にして、担当者案を優先する)。


 ……ちょっとは成長してるのかな、俺。